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タイトル 作者
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タイトル 作者
マイルス・デイビス「天国への七つの階段」
ジャズの歴史を変えた運命の出会い、それは代役探しから始まった。
音楽愛好家・小栗勘太郎
Miles Davis

 人生において真に語る価値のある事は多くは無い。
それでも、人との出会いは、大いに語りたい事の一つだ。邂逅という素敵な言葉もある。運命の出会いは人生を変える力を持つ。それは、幸運の扉を開くこともあるし、不運を呼び込んでしまうことだってある。
 ビジネスの現場は、日々、出会いに満ちている。
人事異動で新しい上司や同僚や部下と出会う。新しいプロジェクトの立ち上げで新しいビジネス・パートナーと出会い、新規の顧客開拓で素敵なお得意さんが生まれることもある。新しい出会いには、トキメキがあって刺激がある。
 だから、出会いの瞬間は大切にしなければならない。
 出会った時の印象が全てを決めることだってある。ファースト・インプレッションがラスト・インプレッションになって、一巻の終わりということもある。一目惚れで永遠の愛が始まるように、一瞬にして、強力なビジネス・パートナーが誕生することだってある。
 例えば、ラリー・ペイジがセルゲイ・ブリンと出会ったことでグーグルが始まった。天才的な二人ではあったが、未だスタンフォード大学の大学院生で、全く無名のミスター・ノーボディー同士だった。
 さて、ビジネスの現場で起こっていることは、音楽の現場でも起こっている。
 日々、我こそはと自らの才能に自負を持つミュージシャンが、生き馬の目を抜くように競い合う。昨日の成功体験に安住してしまうと、明日には時代遅れになってしまいかねない。前衛の矜持を胸に、新しい響きを追求しなければ時代に取り残される。
 でも、新し過ぎると聴衆はついて来れない。斬新な響きを求める一方で、その音楽が聴衆に愛されることも望むし、誰にも似ていない個性を尊重する一方で、普遍的な美しさに肉薄したい。一見、矛盾するものの両立を目指すのが芸術家なのだ。だから、新しい可能性を求めて新しい出会いを欲する。
 しかしだ、最初の出会いが常に劇的だとは限らない。次善の策として選ばれた同僚が、実際に仕事をしてみると、本物だったと気がつくこともある。その出会いが実は運命の出会いだったのだと、後になって分かる。
 例えば、マイルス・デイビスの場合は、どうだったか?
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 マイルス・デイビスは、ジャズの帝王と評され、常に真新しいスタイルを創造した。そのスタイルは強力な求心力を持って時代を牽引した。しかし、そのスタイルが普遍化し、時代の標準になる頃には、何の躊躇もなくそれを捨て去った。40年後半代のクール・ジャズ、50年代前半のハード・バップ、50年代後半のモード奏法、60年代前半の新主流派、そして60年代後半には電化を推し進め、70年代にはファンク、ヒップ・ホップへと展開して行った。
 マイルスが革新的で自由な響きを創造する時、その原動力は、もち論、マイルス自身の稀有な才能だった。しかし、若くて無名で個性的で才能に溢れた新メンバーの存在も、重要な鍵だったのだ。新しいメンバーは、当然のことながら、マイルスから薫陶を得て、才能の原石が研磨される。同時にマイルスもまた新メンバーから強烈な刺激を得ていた。
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 マイルス・デイビスとハービー・ハンコックの出会いはジャズの歴史にとって特筆すべきことだ。二人が出会わなかったとしたら、60年代の「黄金の5重奏団」は誕生していなかっただろうし、ジャズの未来は随分と違ったものになったに違いない。
 しかし、マイルスの側からすれば、ハンコックとの出会いの瞬間は、劇的でも運命的でもなかった……。
 1963年春、マイルスは久しぶりに気合を入れて、新しいアルバムの制作に取り掛かった。
 振り返れば、59年3月と4月に傑作「カインド・オブ・ブルー」を録音し、引き続いて59年11月から60年3月にかけて、ギル・エバンスと共に「スケッチ・オブ・スペイン」の制作に全精力を傾けたマイルスは、ほとんど燃え尽き症候群に似た状況だった。が、63年、マイルスの創造の本能が再び疼き始める。
 4月になると、まず、ツアーで訪れたカリフォルニア州ハリウッドで数曲録音する。その時のピアニストは英国出身のヴィクター・フェルドマン、作曲家としても一流のセンスを持っていた。フェルドマンは、特定の楽団には所属せず、スタジオ・ミュージシャンとして引っ張りだこの活躍で高給取りだった。マイルスは、彼を大いに気に入って、自らの楽団に参加させようとした。しかし、大金を稼ぐフェルドマンを専属で雇うことは、マイルスと云えども難しく、泣く泣くフェルドマンを諦めた。残念無念。
 本拠地ニューヨークに戻ったマイルス。ピアニストを探し続けた。
 そして、ハービー・ハンコックに行きあたった。
 ハンコックは、7歳でピアノを始め11歳でシカゴ交響楽団と共演した。いわば神童だった。ほどなくしてジャズに目覚め、62年にはブルーノートからデビュー盤「テイキン・オフ」を発表。知る人ぞ知る、新進気鋭ではあった。それでも、ハンコックに声がかかったのは、フェルドマンを雇えなかった故だ。その意味では、次善の策というか、補欠入学みたいなものだった。
 しかし、そんな経緯を知ってか知らずか、ハンコックは、マイルスから電話をもらい凄く興奮する。ニューヨーク市マンハッタン西77丁目のマイルスの自宅に招かれ、マイルスに言われるがままピアノに向う。
「好きなように弾いてみろと言われ、本当に好きなように弾いた。そしたらマイルスが『ナイス・タッチだ』と言ってくれた」。ハンコックが出会いの時を回想している。
 1963年5月、マイルス楽団の新メンバー、若武者3人がマイルスの自宅に召集され、リハーサルが始まる。ピアノはハービー23歳、ドラムはトニー・ウィリアムス17歳、ベースはロン・カーター26歳。
 3人は、数日のリハーサルで恐るべき一体感を獲得する。
 ここからが、歴史だ。
「オレには、この新しいクインテットは、ものすごいバンドになるという自信があった。彼らは、ほんの2、3日間であれだけすごくなったんだから、2、3ヵ月後にはどうなっているんだろうかと、こみ上げてくる興奮があった」マイルスが述懐する。
 スタジオに入る準備は出来たのだ。
 5月14日火曜日、ニューヨークのスタジオ、マイルス5重奏団としての録音が行われた。そして、この日は、マイルスとハンコックが始めて共演し録音した日として、長らく、ジャズ史に記憶されることとなる。マイルスは鉱脈を探り当てたのだ。
 この日の録音は文句なしに最高だった。どれくらい最高だったのか?
 アルバム・タイトルにもなった「天国への七つの階段」という曲がある。この作曲者は、マイルスが新楽団のピアニストとして懇願した、ヴィクター・フェルドマンだ。もち論、ハリウッドでも録音していた。しかし、最終的にマイルスは、ハリウッドの録音を没にした。何故なら、ハンコックと録音した演奏の方が格段に優れていたから。新しい風が吹き込んだような、新しい時代の新しいジャズがここに誕生した。
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 ハンコックをピアニストに据え、翌年にはウェイン・ショーターを迎え入れた。このマイルス楽団は、畏敬の念を込めて「黄金の5重奏団」と呼ばれ、生楽器によるジャズを行き着くところまで引っ張って行った。彼らは、恐るべき速度で加速し、ついにジャズの限界を見てしまったのだ。
 1968年、マイルスは「黄金の5重奏団」を解散する。その時、マイルスに見えていたのは電化されたジャズの未来だった。翌69年、マイルスは「ビッチズ・ブリュー」を発表した。
 マイルス学校を卒業したハンコックも、自らの戦略でジャズの未来に挑戦する。黒いリズムと電気楽器こそが、未来を切り開く武器だと熟知していた。「ヘッド・ハンター」にはマイルス仕込みのジャズの改革者の自負が満ちている。
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 新しい出会いこそが、未来を変える力を持つ。しかし、新しい出会いの瞬間が劇的なものとは限らない。と、「天国への七つの階段」を聴いて実感する。

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